81年8月、東京・信濃町にあったスタジオ・・・という書き出しで始まる、昨日(2009年9月5日)の朝日新聞朝刊の記事。信濃スタジオといえばCBSソニーさん、二十代の初めにご縁があって度々、お伺いしたことのあるスタジオです。
なつかしさと小さな感傷を覚えながら、出勤の仕度で慌ただしい数分に通読したのは、『普通のアイドルに決別 松田聖子「風立ちぬ」』と題する記事。50万枚を超えるヒット曲「風立ちぬ(作詞:松本隆 作曲:大滝詠一)」の制作エピソードです。

この記事を読んで、二十代の若き「私」にこそ、現在の私の職業的なアイデンティティ『人材開発プロデューサー』の萌芽があると気づきました。
人材開発プロデューサー・・・
それは、2001年の独立時に、名刺に刷り込むために創った肩書です。自らの職業人としてのアイデンティティを表わす造語であり、「人材開発の仕組みや仕掛けを創る人」という意味を表しています。
大学時代、就職を意識した頃に私が選んだ職業は「もの書き」、文章を書く仕事でした。コピーライター、編集記者といった商業的な作家のひとつとして、もっとも憧れていたのが作詞家です。
子供のころから歌謡曲が好きで、故 阿久悠さんの詞を美しいと思い、作詞の手本にしていました。そんな私の前に現れたのが、松本隆さんでした。
写実的でありながらロマンティック、現実的でありながらセンティメンタル、繊細でありながら、タフネスがある・・・。松本さんの詞の世界が、私に新しいインスピレーションをたくさんプレゼントしてくれました。
その松本さんが聖子さんに提供した「風立ちぬ」は、聖子さんの7枚目のシングル。今朝の記事では、「松田さんが普通のアイドルから脱皮する転機の曲となった」と紹介されています。
80年4月に「裸足の季節」でデヴューした聖子さん。初めはアップテンポなアイドルらしい楽曲を歌っていました。その後、「白いパラソル」でミディアム調に、「風立ちぬ」ではバラードへ。聖子さんを育てた若松宗雄さんはこれを機に、歌手としての内面をより深めて欲しいと願い、「文学少女的な、知的なイメージ」を狙ったのだそうです。
聖子さんは最初、「風立ちぬ」を「私には向いていない」と歌いたがらなかったそうです。若松さんは「曲に歌手が食われてしまうような、抵抗を感じたようだった」とふりかえり、「それを歌いこなした時、その歌手の新たな魅力が広がるのです」と述べています。
この曲がヒットした後、聖子さんは「聖子ちゃんカット」を短く切りました。
若松さんの回顧談を読みながら、私は作詞家に憧れていた頃の自分を思い出しました。そして、作詞家の卵としてレコード会社に出入りをしていた時に、とても満ち足りていて、楽しかったことを思い出しました。
その楽しみとは、ものを書く楽しみではなく、歌手を売り出す=歌手という人材を育てる楽しみであったことに、今さらながら気づきます。
人材開発プロデューサー・・・
独立当時は、この肩書に見合った活動を十分にしているとはいえず、むしろ、近い将来に実現したいキャリアヴィジョンを表わす肩書というのが実態でした。
独立して10年を経て、10年前のキャリアビジョンが現在の自分と重なっていることに、矜持と喜びを感じている昨今。人生の秋を迎えつつある今だからこそ、松本隆さんが「風立ちぬ」に託したメッセージが理解できる気がします。
<秋の風がふわっと吹いて、啓示を受ける。それは「強く生きなさい」>
人生は100年。これから、ますます強く生きていくことを自分自身に誓った今年の初秋。今日9/6は、58歳で亡くなった父の76回目の誕生日です。

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Tags: 人材開発プロデューサー, 人材開発プロデュース, 風立ちぬ 堀辰雄 松本隆 松田聖子
松田聖子さんの「風立ちぬ」にふりかえる… ~人材開発プロデューサーの萌芽~
81年8月、東京・信濃町にあったスタジオ・・・という書き出しで始まる、昨日(2009年9月5日)の朝日新聞朝刊の記事。信濃スタジオといえばCBSソニーさん、二十代の初めにご縁があって度々、お伺いしたことのあるスタジオです。
なつかしさと小さな感傷を覚えながら、出勤の仕度で慌ただしい数分に通読したのは、『普通のアイドルに決別 松田聖子「風立ちぬ」』と題する記事。50万枚を超えるヒット曲「風立ちぬ(作詞:松本隆 作曲:大滝詠一)」の制作エピソードです。
この記事を読んで、二十代の若き「私」にこそ、現在の私の職業的なアイデンティティ『人材開発プロデューサー』の萌芽があると気づきました。
人材開発プロデューサー・・・
それは、2001年の独立時に、名刺に刷り込むために創った肩書です。自らの職業人としてのアイデンティティを表わす造語であり、「人材開発の仕組みや仕掛けを創る人」という意味を表しています。
大学時代、就職を意識した頃に私が選んだ職業は「もの書き」、文章を書く仕事でした。コピーライター、編集記者といった商業的な作家のひとつとして、もっとも憧れていたのが作詞家です。
子供のころから歌謡曲が好きで、故 阿久悠さんの詞を美しいと思い、作詞の手本にしていました。そんな私の前に現れたのが、松本隆さんでした。
写実的でありながらロマンティック、現実的でありながらセンティメンタル、繊細でありながら、タフネスがある・・・。松本さんの詞の世界が、私に新しいインスピレーションをたくさんプレゼントしてくれました。
その松本さんが聖子さんに提供した「風立ちぬ」は、聖子さんの7枚目のシングル。今朝の記事では、「松田さんが普通のアイドルから脱皮する転機の曲となった」と紹介されています。
80年4月に「裸足の季節」でデヴューした聖子さん。初めはアップテンポなアイドルらしい楽曲を歌っていました。その後、「白いパラソル」でミディアム調に、「風立ちぬ」ではバラードへ。聖子さんを育てた若松宗雄さんはこれを機に、歌手としての内面をより深めて欲しいと願い、「文学少女的な、知的なイメージ」を狙ったのだそうです。
聖子さんは最初、「風立ちぬ」を「私には向いていない」と歌いたがらなかったそうです。若松さんは「曲に歌手が食われてしまうような、抵抗を感じたようだった」とふりかえり、「それを歌いこなした時、その歌手の新たな魅力が広がるのです」と述べています。
この曲がヒットした後、聖子さんは「聖子ちゃんカット」を短く切りました。
若松さんの回顧談を読みながら、私は作詞家に憧れていた頃の自分を思い出しました。そして、作詞家の卵としてレコード会社に出入りをしていた時に、とても満ち足りていて、楽しかったことを思い出しました。
その楽しみとは、ものを書く楽しみではなく、歌手を売り出す=歌手という人材を育てる楽しみであったことに、今さらながら気づきます。
人材開発プロデューサー・・・
独立当時は、この肩書に見合った活動を十分にしているとはいえず、むしろ、近い将来に実現したいキャリアヴィジョンを表わす肩書というのが実態でした。
独立して10年を経て、10年前のキャリアビジョンが現在の自分と重なっていることに、矜持と喜びを感じている昨今。人生の秋を迎えつつある今だからこそ、松本隆さんが「風立ちぬ」に託したメッセージが理解できる気がします。
<秋の風がふわっと吹いて、啓示を受ける。それは「強く生きなさい」>
人生は100年。これから、ますます強く生きていくことを自分自身に誓った今年の初秋。今日9/6は、58歳で亡くなった父の76回目の誕生日です。
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