九年目の決意:道を育てる‼️

津波を見るのが、今も辛い方、ごめんなさい<m(__)m>
シェアした写真は三陸陸中に住まう心友が9年前に撮影し、昨日2020年3月11日、FBに投稿した山田湾の津波です。

あの時、「仙台空港に津波❓ 車が流されてる❓」とビジネスマンが叫びました。鶴見川と思われる河川の上で緊急停車した新幹線のデッキでした。車内のアナウンスで「関東地方で震度5以上の地震が発生」と知らされ、遠景には巨大でまっ黒い煙。てっきり東京が直下型に見舞われたと思い、午前中まで一緒だった友人の安否を確認している最中でした。

えっ❓ 東北ですか❓ と、見ず知らずのビジネスマンに尋ね、仙台支社にやっと電話が通じて…と会話するうちに、三度目の強い揺れ。よろよろとよろけたはずみにしゃがみこんだら、涙が止まらなくなりました。仕事のできそうな、颯爽としたビジネスマンに「大丈夫ですか」と気遣われ、「大丈夫です」と見栄をはりました。

品川駅で乗車したのが14時40分。ほどなく「新幹線は強い揺れを感知しましたので…」と急ブレーキがかかり始め、川がだんだん近づいてきて、祈り空しく、私の車両は橋の上でピタリと停まりました、やけに静かな一瞬。本当に揺れを感知したのかしらと訝っていると、ズドンとからだが上下して、あとはビックサンダーマウンテンのトロッコに乗っているかのように横に縦にふられ、ミシミシと鳴り続ける車体の窓から、橋の欄干が大きくたわむのが見えました。新幹線ごと、川に落ちるかもしれない❗

やがて、揺れがおさまり、助かった…と胸をなでおろしたのもつかの間、二回目の激しい揺れ。私は車体や欄干の揺れを見ていられなくなり、飛行機の緊急着陸時のようにからだを丸め、経験したことのない恐怖の中で思わず、「もう赦して」と呟きました。しばらくして揺れが止むと、関東で地震というアナウンス。母に電話をして「必ず帰るから心配しないで」と伝いながら、もしかしたら帰れないかもしれない、母の声を聞くのは最後かもしれないと心から思いました。この後、電話は一切、通じなくなりました。

いてもたってもいられなくて、デッキへ出て、電話中のビジネスマンの叫びで、被災地が東北だと知ったのです。橋の上で4時間、19時過ぎに新幹線は時速30キロで動き出しました。ゆっくりながらも西へ。枕木の数をあたかも指折り数えるように、ひたすら西へ西へと気持ちが駆り立てられる一方、帰る場所のある自分、逃げているかのような自分にやましさを感じました。

自宅に着いたのは、日付が変わる少し前でした。玄関でピンポンして、母がドアを開けてくれて、「お母さん、帰れたよ」と涙がこぼれて、母は「とにかく入りなさい」とか「今夜は早く寝なさい」と迎えてくれた気がするものの、優しくかけてくれた言葉をどうしても思い出すことができません。ニュースで放映しているだろう津波を見たくはなく、お風呂に入ってすぐに、ベッドにもぐり込みました。翌日3月12日の朝、仕事に出る仕度をしながら、新幹線の中でジャストタイムに聞き知った津波、その獰猛で残酷な姿をテレビの画面で初めて見たのです。

そして、導かれるように岩手県山田町のお寺の住職と出逢い、消防団員と友だちになり、二人を名古屋に呼んで、語り部をしてもらったら、呑んだくれの消防団員が「人の流れが道を造る」なんてしゃれたことを言うから、誘われるように山田町に里帰りするようになり、陸前高田、大槌、閖上、南三陸、閖上、宮古、釜石も巡り、三陸鉄道にも乗車させてただきました。

国土交通省が道の駅と併設で続々、建設しつつある東北被災地各地の「伝承館」。道路を拓くのが工事なら、道路を道に育てるのは人の流れです‼️ 愛する呑んだくれが津波の写真を投稿できるようになった九年目、私が津波の映像を初めて見た3月12日。今日だからこそ、呑んだくれや東北の友たちに誓います。人の流れを創るために、その流れで道を育てるために、北へまた帰るよ~ん❤️
東日本大震災 #復幸キャラバン #猫の手隊

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