「語り部」の郷から始まった縁

今にして思えば2011年、東北被災地とのご縁は、農業共済組合長さんたちの対談のコメンテーターとして、「語り部」で知られる遠野市をお訪ねした時につながっていました。ご高齢の皆さんのお国言葉が全く分からず(笑)、お役目を果たせなかったのも懐かしい想い出です。

対談でご一緒し、お国言葉を通訳(?)してくださった稲作研究の大学教授が「この山を越えると陸前高田の町があるんだよ」「そこへちょくちょく、麹を買いに行くんだ」「陸前高田は文化的でジャズ喫茶もある」と語ってくださり、「陸前高田をいずれお訪ねしたいです」と応じたのが、2月11日でした。

そうです。そのわずか1か月後に、あの災禍が三陸の町々を襲ったのです。

遠野での座談会には陸前高田の組合長さんもお越しになっていて、その方がご無事だったと聞かされた時にはほっとしつつ、三陸の組合長さんや組合員さんにも亡くなった方が多々いると伺い、手放しでは喜べませんでした。

「ふっくら布ぞうり」に誘われた陸前高田

あれから、8年。陸前高田はもとより三陸の海岸沿いには防潮堤が築かれ、町の景色は様変わりしています。それぞれの町の暮らしも変わらざるを得ないのでしょうが、「震災前と同じように暮らす」と踏んばっているヒーローたちもいます。

ヒーローの真ん中にいるのが、 ドキュメンタリー映画「先祖になる」の主人公 佐藤直志さん。直志さんは「家が流されたら、また建てればいい。大昔から人はそうやってここで生きてきた」という言葉どおり、ご自身で伐った木を宮大工として知られる気仙大工に託し、家を建て直した木こりさんです。直志さんとは、ふっくら布ぞうりの荒木そうこさんとのご縁で出逢えました。

現在 85歳にして現役で、大型コンバインに乗って米を作る直志さん、これを支える菅野剛さん、家や家族を流された方々が編む「ふっくら布ぞうり」の編み手の皆さん。皆さんには、2015年の初訪問から4回、お目にかかっています。その度に、元気と勇気をいただいているのは私たちなのに、直志さんはおっしゃるのです。「これで、また頑張れる」と。。

ブルーローズが奇跡を招いた山田町

被災地と呼ばれる町を訪ねるようになったのは、2012年。被災地のために何かさせていただきたいと、とにかく立ち上げた「3.11復興協働アクトチーム 一緒にがんばろ~ず!」で、「ブルーローズ・キャンペーン」のお手伝いを始めたところ、ご縁を授かりました。

ブルーローズキャンペーンは、青いバラのピンバッチをチャリティ販売し、その収益金をあしなが育英会に寄付して、津波遺児の自立に役立てていただく活動です。栽培ができないと言われた青いバラの花言葉はかつて「不可能」でしたが、栽培ができるようになってからは「奇跡」「夢かなう」に。

「一緒にがんばろ~ず!」としてブルーローズキャンペーンをお手伝いを始めてまもなく、名古屋で開催された震災勉強会で、被災地の住職と出逢いました。住職さんのお寺、龍泉寺さんは岩手県山田町織笠にあるとのこと。

これを聞いた時には、息がとまりそうでした。なぜならば、ブルーローズは震災1か月後にシャツとともに、ある学校に送られていました。その学校が山田中学校なのです! なんという奇跡! この奇跡は必然であり、ブルーローズが招いてくれたご縁に違いありません。

人の流れで道を造るために

そして、2013年。山田町から住職と住職の友人である消防団員さんを名古屋へ招き、あの日の体験を語ってもらえることになりました。団員さんはあの日あの時を語り、泣き、最後に言いました。

「人の流れが道を造る」

ならば、人の流れを造ろう! ひとりでは流れを造れないから、仲間とともに流れになり、道を造ろう!

2015年11月、あのリッツ・カールトンの元日本支社長 高野登さんが塾長を務める百年塾のひとつとして「復幸キャラバン百年塾」は発足。12月23日、私たちのバスは一ノ関駅を出発しました。陸前高田を経て、山田町へ。24日のクリスマスイブには、小学生たちと交流し、帰路には大槌町で大槌刺し子の皆さんと語り合いました。

「無かったこと」にしてはいけない爪痕

翌2016年からは、2泊3日のキャラバンに。この時は仙台から閖上に向かい、「閖上の記憶」の語り部さんの悲しい物語も聴きました。2017年には塩釜にも立寄り、塩竃神社のご加護をいただき…。

前年にも尋ねた南三陸のホテル観洋「語り部」さんを復幸キャラバンのバスにお乗せし、戸倉小学校、戸倉中学校、旧高野会館遺構へ。途中、嵩上げの道路となりつつある道端にバスを停めるように、と語り部さん。そこにはかつて小学校がありましたが、津波に洗われた校舎は撤去されたそうです。

防潮堤が築かれ、道路が嵩上げされ、そのために遺構が取り壊され…。この酷い事実が「無かったことになっていく」「無かったことにしていいのか!」 と、語り部さんの言葉がバスの車中にこだましました。「無かったこと」にしてはいけない爪痕が、ここには確かにあるのです。それなのに、年毎に爪痕は埋められていきます。

旅の終わりを南三陸町で

こうして、被災地と呼ばれる町々をキャラバンしながら、私たちはこの町々から何を学べばいいのだろう、この営みにはどんな意味があるのだろう、と自問自答し続けた足掛け5年。

4度目となる2018年度キャラバンは、年明け2019年2月に旅立つことになりました。というのも、2/24~25日、南三陸のホテル観洋さんが「語り部フォーラム」を開催するという一報が飛び込んだからです。この日に合わせて、旅程を組もう!  そして、実現した旅程は下記のとおりです。

2/22㈮、盛岡で集合し、宮古へ。刈屋建設さんによる復旧工事現場を見学し、山田町に入りました。陸中山田駅では、三陸鉄道の試運転列車に「いい日旅立ち」を歌いながら手をふった後、山田町の心友たちとはてしなく続く懇親会!

2/23㈯、この日も試運転列車に合わせて出発。ひょっこりひょうたん島からデザインされた大槌駅で再び、歌いながら列車に手を振り、釜石駅へ。三陸鉄道南リアス線からは、しばし列車の旅。終着の盛駅で先廻りしていたバスに乗り換えて、陸前高田へ向かい、85歳で木を伐り続ける直志さんたちとのランチの後、南三陸のホテル観洋さんをめざします。

見えない景色を心の眼で見る

南三陸に到着早々、旧高野会館遺構へご案内いただきました。昨年に続いて、2回目。屋上からは延々と続く防潮堤や10メートルも嵩上げされた復旧道路が一望できます。日々、変貌する景色の向こうに、埋もれゆく酷い景色を想い、海へ流された美しい景色を慈しむもの悲しさ。心の眼を大きく見開いて、復旧の影と光を直視した時間でした。

2/24㈰、日の出6:15のプラカードに誘われ、露天風呂から南三陸の見事なご来光を拝むことができました。昨年は、雲に隠されていたお日さま。午後から開催される「語り部フォーラム」の盛会を占うような明るさでした。復幸キャラバンの私たちも助っ人として、開会前の設営や受付をお手伝い。申し込み300人のところ、蓋を開けてみれば400人! 東北被災地の語り部さんと「語り」への関心と想いが窺われました。

フォーラムでは、被災を語り続ける「語り部」さんたちのお話しを聴きながら、キャリアカウンセラーとしてナラティブ(語り)のパワーをあれこれを実感いたしました。これについては、改めて…。

「聴き部」「聴く部ぇ」に成る決意

この旅の終わりにやっと気づいたのは、災禍を被った「語り部」さんの語りに耳を傾ける「聴き部」「聴く部ぇ」にならば成れそうなこと。災禍を被った皆さんが探し築かれている小さな光をご一緒に観るのならば続けられそうなこと。 被災地と呼ばれる町々の小さな幸せをともに喜ぶ「観幸」の旅を続けたいということ。

「復幸キャラバン百年塾」としての旅は、本年度をもって、ひと区切りとさせていただきます。が、災害のあった町々に暮らすお友だちの皆さん、これからお友だちになるかもしれない皆さん、これまでにキャラバンにご一緒してくださった皆さん、これからもよろしくお願いいたします。新しい形できっと再訪させていただきます。それまで、私たちを待っていてくださいますか。

復興から復幸へ! 復幸から観幸へ!

私たちは、トラックが運んだ土とコンクリートに埋まっているあの景色を忘れません。そして、見たことがあってもなくても、瞳をそっと閉じて、海へと去っていった景色を慈しみ続けます。私たちは一緒にがんばろ~ず! 私たちはずっと、被災地と一緒にいます!

日本のどこかに、私たちを待っている人がいる! それが、私たちの元気と勇気の素であり、私たちの誇りです!  ですから、被災地と呼ばれる地域に生きて暮らされている皆さまが小さな光を探し築き続けられるかぎり、必ずや、その光を「観光」するために伺います。

皆さんとともに小さな光を観て喜ぶ幸せを、私たちは「観幸」と呼びます。 遠野の「語り部」ではじまり、南三陸の「語り部フォーラム」で息継ぎをして、「聴き部」「聴く部ぇ」として続く旅。また逢う日まで、ますますお元気で!

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