岩手県立大学 市川 尚先生人材育成マネジメント研究会さんの「インストラクショナルデザインセミナー」に参加しました。“よいセミナー、悪いセミナーを見分けるコツ”というデリバリー側としてはどきどきするようなサブタイトルに魅かれ、インストラクショナルデザイン(ID)の基礎知識とIDに基づくセミナー設計のメリットを体験的に学びました。

講師は、岩手県立大学ソフトウェア情報学部講師 市川 尚先生で、日本のインストラクショナルデザイン研究の第一人者 鈴木克明先生のお弟子さんです。お若い先生にも関わらず、さすが第一人者の直弟子さんだけあって、難しげなIDの勘所を理路整然かつ分かりやすくご説明くださり、理論の数々が自然に脳に染み込んでくるようでした。

主催者の堤宇一さんが理論の実践への展開をコメントされ、うなずくところの多いセミナーでした。堤さんによれば、「(セミナーの)舞台裏を見てみよう!」と企画し、「手品のタネ明かし」だとか。手品のタネは明かされたら興ざめですが、セミナーのタネは明かされるほどにセミナーの質を押し上げるのですから、素敵です。

さて、”良いセミナーか、悪いセミナーかを見極める”ための9つのチェック項目は、次のとおりです。あなたが参加したセミナー、設計したセミナーは如何?

【IDチェック項目】】

IDプロセスの分析・設計部分から、企画書の良し悪しを見るために使えそうであり、かつIDの初歩として知っておいてほしい部分を厳選したもの。

①学習目標設定の意図が明確・適切か
②学習目標が明確か
③対象者の前提条件が明確か
④コンテキストを踏まえているか
⑤学習すべき事項がもれなく抽出されているか
⑥学習した成果を判定する方法が示されているか
⑦学習していく順番が妥当か
⑧学習必要時間は妥当な長さか
⑨学習すべき事項に適した学習活動が選択されているか

セミナーのプログラム設計は我流で学習し、実践してきました。そして、あながち的外れではなかったことを確認できましたので、これまでのクライアントさまに失礼がなかったと、ひと安心。堤さんによれば、ちゃんとやっていれば、自然にインストラクショナルデザインの理にかなう設計になるものだとか。おかげさまで、ちゃんとやってきたらしいです。

なお、IDや学習に関わる理論のサマライズがあったので、リストを創ってみました。次のとおりです。

ADDIEモデル (鈴木ら 2007)
コンテキスト分析 (ディックら 2004)
ARCSモデル (ケラーら 1983)
成人学習理論 (リー&オーエンズ 2003)
カークパトリックの4段階評価 (カークパトリック 1975)
研修目的に応じた研修手段の効果 (Piskurich 2006)
*教授手法の選択肢 (Reigeruth 1999)
ガニェの9教授事象 (ガニェ)
キャロルの時間モデル

理論を知ることは大切ですが、理論を実践へ適用していくことはもっと大切。知ってしまったからには、知らないふりはできません。明日からまた、あれこれと試行錯誤の日々を続けていくことになりそうです。

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悠木 そのま on 5月 3rd, 2009

呼び名が関係性を表すという体験

この1~2か月の間に、2つほど、呼び名に関わる面白い体験をしました。

ひとつ目は総勢4人で食事をした時のこと。私の他に私のセミナー同級生が1人、私のセミナー受講生が2名で、セミナー同級生の女性とセミナー受講生の1人が友人という、関係性が異なる人たちとの食事会での体験です。

セミナー同級生によれば、自分以外の2人が私を「せんせい」と呼ぶのが不思議な感じがしたと言うのです。これを聞いて、私は人間関係についての想いをめぐらすところとなりました。

仕事がら「せんせい」と呼ばれることが多く、かつては「先生と呼ばないでください」とお断りしていましたが、最近は「せんせい」と呼ばれたほうが適切なTPO、関係性もあると思えるようになり、あまり断らなくなったという背景があります。

セミナー中には肩書きをはずした名前、ニックネームで呼び合うよう奨め、奨められることがあります。そうしたセミナーで知り合った人とホテルで待ち合わせをしたところ、本名が分からず、フロントでの呼び出しに困ったという笑えない体験もあります。

それほど親しくはないのに親しげに呼び合って不自然でないのは、「立場や肩書が意味をなさない集まり」であるとか「人間関係を学ぶワークショップ」であるとか、文脈がはっきりしている場合にかぎります。

人と人がおつきあいする時には何かしらのTPO(時・場所・オケージョン)があり、おつきあいの始まりやプロセスに即した関係性があるわけで、そのTPO、関係性にふさわしい敬称を添えたり、名前やニックネームで呼びあうのは意外に大切なことだと、思うようになった次第です。

ゆっくり、じっくり、関係を深めるのなら

それはマナーということではなく、人間関係を真面目に考えてのことです。つまり、呼び名によってその時々にふさわしい距離を保つことができれば、ゆっくりと安心して人間関係を深めていけます。もちろん、深めない、親しくならないという選択もできます。

社会的な立場を越えたおつきあいのほうが、立場に依るおつきあいよりも人間らしいという考え方には賛成ですが、だからといって、誰とでも立場を越えた人間らしいおつきあいをすることもありません。相手がどのような人なのか、よく知り合ってから、じっくりと関係を深めていくような丁寧なつきあい方が私の好みです。

マナーの点からも、呼び名によって「私は現在の関係性をふまえた呼び名でお呼びすることで、あなたを尊重しています」というメッセージを送ることができます。尊重のある関係性という文脈があればこそ、時には無礼講も許され、結果的に人間関係を深めていけるのではないでしょうか。

さらけ出せば、いいってものでもない

人間関係やコミュニケーションをテーマにするセミナーが増えていて、そうしたセミナーではたいてい、自分をオープンにすることを奨めます。私もそうしたセミナーを担当する時には、もちろん奨めます。

ただし、オープンにするということは、なんでもかんでもさらけ出すことではなく、その時その場における自分の気持ちや思いや考えに気づいていて、その時その場での気持ちや想いや考えを必要十分に表出できることを意味するはずです。

そして、必要に応じては、表出しないことを選択できることです。さらに、その時その場にいる人たちがその時その場での表出したりしなかったりする選択を尊重できることでもあると思います。

呼び名は変わらないし、変わるという体験

ふたつ目の体験ですが、最近の私はペンネームである「そのまさん」と呼ばれることが多く、私がそう呼ばれるのを聞いていた古い友人が「なんか、変・・」と述べた体験です。

彼女は、私が駆け出しのコピーライターをしていた20代の頃、仕事を教えてくれたメンターです。その頃、私は彼女の仲間うちから「わんちゃん」と呼ばれていました。そこで、彼女にとって、私はいつまでも「わんちゃん」であり、私を「わんちゃん」と呼びます。

私も彼女から「わんちゃん」と呼ばれるのは、なつかしくてほっとします。が、20代の私ではなくなった今の私は「そのまさん」のほうが現実味を感じます。ある意味では、「わんちゃん」は私のキャリアの記念碑ですから、その頃の友人ではない人に「わんちゃん」と呼ばれるのは不愉快な感じです。

同じように、「なおちゃん」と呼ばれるのも嫌いです。子供の頃、家族から「なおちゃん」と呼ばれていたからです。

子供の頃の名前で呼び合うというセミナーに参加したら、その時の同級生は私のことを「なおちゃん」と呼ぶようになりました。成り行きからは仕方のない流れと分かっているものの、セミナーが終わったら、たとえば「なおみさん」と呼び改めて欲しいと内心で思っています。いずれ、折を見て、セミナー同級生たちにお願いしようと思っています。

ちなみに、大学の同級生は私を「なお」と呼びますが、大学の頃の無邪気な自分に戻れるようで、嬉しいですね。だからと言って、大学の同級生以外の人から「なお」と呼ばれたら、気分がよくない感じです。

呼び名を丁寧に扱うということ

ついでながら、TPOや関係性が変わると、呼び名は変わります。たとえば、子供ができると夫婦の呼び名は「パパ」「ママ」へと変わることが多いですね。長年のおつきあいを経ても、呼び名が変わらない関係が大切なのと同じように、TPOや関係が変わって呼び名が変わる関係も楽しいものです。

自分はどの呼び名で呼ばれ、相手をどの呼び名で呼ぶと快適な関係が生まれ、成熟した関係へと育てていけるのか、呼び名ひとつについても丁寧に扱うことによって、様々な人との様々な関係を豊かに築いていきたいものです。

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悠木 そのま on 5月 1st, 2009

2007年から団塊世代が定年退職を迎えています。

これに先駆ける2005年、産業経済省は
若手人材の確保、育成を検討するために
社会人基礎力研究会」を開催。

2007年にはSNS「基礎力.net」の育成と評価の
ノウハウをまとめたリファレンスブックを発行。

2008年からは実践への展開として
育成グランプリも実施しています。

社会人基礎力については
こちらから⇒経済産業省公式サイト

即興劇プレイバックシアターの創始者ジョナサン・フォックスさんが来日し、「ソーシャルチェンジ」のワークショップが開催されたので参加いたしました。

ソーシャルチェンジというコンセプトはジョナさんから教えていただき、今や、プレイバックシアターをとおして平和的友好的に社会を変える活動を継続するというのは、私のライフワークともいえるテーマになっています。

プレイバックシアターはある人のストーリーを聴き、演じる行為です。人は語ることによって、カタルシスを得、癒しや気づきや勇気を得たりします。

プレイバックシアターをとおして、ストーリーが語られるということは、人の心が癒され、鎮められ、人が猛々しい行為に及ぶのを防ぐのではないか。ひいては、社会に平和がもたらされるのではないか…と信じて、私はプレイバックシアターを学び、演じ続けています。

Acts of Service

けれども、プレイバックシアターをとおしてソーシャルチェンジをめざすのはハチドリのひとしずく、小鳥が山火事を消そうと、くちばしの水をポトリポトリと落とすようなものです。それでも、なぜ、プレイバックシアターを続けているのか? ワークショップの3日間、私はずっと、そのことを考えていました。

私は1歳の時、従姉の無邪気な暴力によるショックから脱水症状を起こし、危篤に陥りました。母が弟を出産するために入院している最中のこと。母がいない不安に加え、従姉の乱暴なふるまい。私は覚えていないのですが、おそらく、無意識の闇に暴力に対する恐怖が刷り込まれたものと思います。

そのせいか、小学校の低学年の頃、TV番組「コンバット」で銃撃の音が始まると、ふるえながら布団の奥深くに隠れ、眠りを急ぎました。いまでも、戦闘シーン、決闘シーンでは自分が殺されるかのような恐怖を感じます。

戦争体験もなく、身近に戦没家族もいないのに、平和活動に興味があるのは私の無意識に隠された恐怖が、暴力への強い嫌悪を訴えているからだと思います。

プレイバックシアターがソーシャルチェンジをめざす活動であることを知った時、私は劇団を創ろうと決め、2005年に名古屋プレイバックシアターを結成しました。そして、飽くことなく、プレイバックシアターの活動を続けています。それはもしかしたら、暴力におびえる自分を癒すためなのかもしれません。

私たちが死んでも、ストーリーは残る。

動機がどうであれ、プレイバックシアターをとおしてストーリーを聴くことは、人々と丁寧に関わりながら、語られる個人的なストーリーに在る普遍的なメッセージに耳を傾ける行為です。

人が語ったストーリーは語られた瞬間にテキストとして、語り手から離れ、聴き手によって語り継がれ、語り継がれることで物語となり神話となり、独立した存在として生き始めるのです。

世界中に、語り継がれることを待っているストーリーが在る。

そうしたストーリーに出逢うために、私はこれからも山火事にポトリポトリ、ひとしずくの水を落とすかのようにプレイバックシアターを学び、演じ続けていくでしょう。

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悠木 そのま on 4月 25th, 2009

横浜開港150周年を記念する『開港博 Y+150』の開会まで、後3日。
4/28(火)~9/27(日)、ベイサイドヒルサイドマザーポートエリアで開催されます。

153日間におよぶ感動体験とのこと。
2005年の愛知地球博の楽しい思い出が重なり、心がそわそわしています。
そわそわしているのは、それだけではありません。

横浜は「こころのふるさと」だからです。

かつて、小学校2年生から中学校2年生まで、横浜市に住んでいました。
当時の保土ヶ谷ゴルフ場、現在の横浜国大の西側あたり。
常盤台小学校に5年間、保土ヶ谷中学校に1年3か月、通学いたしました。

私たち家族は父の赴任により、東京オリンピックの1964年に東京へ転居、
2年間ほど、営業所の2階に住んでいたものの、何かしらのご縁があって
横浜市神奈川区に土地を買い、家を建てて、住まいました。
石田あゆみさんの「ブルーライトヨコハマ」がヒットした時代です。

父は、兄弟で経営する同族企業のいちばん下の弟でした。
時代は、池田内閣による所得倍増計画のまっただ中、
社業発展のために愛知から東京へ、父は兄たちから先鋒をまかされたのです。
母は見知らぬ土地へ飛ばされる想いで、しぶしぶ愛知を離れたようです。

けれども、東京、横浜での暮らしは同族の親族のいざこざからも離れ、
当時の愛知県では体験できないような生活文化も味わえ、
結果的には、私たち家族の蜜月時代になりました。

亡くなった父は病床で、「横浜はよかった…」と何度もつぶやきました。
そんなわけで、横浜は私と私たち家族の「こころのふるさと」なのです。

その横浜が今年開港150周年を迎えて、開港博Y+150です。
母を誘って、何度か訪れたい!

ふるさと横浜、開港150周年、心からおめでとうございます。

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HRDM研究会のセミナー「教育効果測定の基本を理解する~研修の教育効果の測り方」に参加しました。

講師は同研究会代表 堤 宇一さん、「はじめての教育効果測定―教育研修の質を高めるために」の著者として知られる方です。共著者の久保田享さんが私たちNPO法人キャリアデザインフォーラムのメンバーなので、堤さんの輪読会を名古屋で共催させていただいたというご縁があります。

教育(研修)の効果測定が必要、重要であるとは知りながら、何をどう測るのかは悩ましいところです。堤さんのセミナーでは「教育効果とは何か」という知的理解からスタートし、「なぜ、教育効果測定を実施するのか?」という実践的な命題を考え、実施のために必要な知識と手順を学び、演習をとおして「効果測定実施 概要設計」を体験しました。

そのゴールは、教育効果を4つのレベルで分類できるようになること。3グループに分かれ、2つの概要設計を行いましたが、各グループとも堤さんに教えていただいた知識と手順をふまえた概要設計がおおよそできるようになりました。

素晴らしい! 講師の手腕があればこその教育効果です。

さて、堤さんが用いた4つの教育効果の測定レベルとは、カークパトリックモデルと呼ばれるもので、1.リアクション…参加者の反応の測定 2.ラーニング…参加者の知識・スキルの習得状態を測定 3.ビヘイビア…参加者の学習内容の活用状況を測定 4.リザルツ…参加者の行動変容によって得られた組織貢献度を測定という4レベルでした。

たいへん印象深かったのは、堤さんが提示された回答例の手堅さでした。たとえば、会社トップがレベル4を期待していたとしても、諸条件をふまえ、育成担当者がめざすべきはレベル3の必達である…という合理的判断を行うというスタンスです。

確かに、予算、期間、人的資源、物的資源、手法の選択などなど、様々な諸条件にてらして、どこまでの教育効果をあげられるかを現実的に推し量り、保証し得る範囲でレベル設定を行って、学習目標を定め、その必達を精緻にくみ上げなければ、中途半端なプランになるのは明らかです。

こうした判断はベテランの実務家なら、リスク対策(クレーム予防)として必ず行っているでしょう。けれども、心のどこかで「上司、クライアントから教育効果があがっていないと責任転嫁されないように…」と責任回避をしているのではないか…とやましく感じていたのは私だけでしょうか。

堤さんの教育効果レベル設定のスタンスからは科学と理論に裏打ちされた自信、強さが感じられ、責任回避ではなく、むしろ専門家としての責任を果たしたいからこその戦略であることを学びました。

セミナーのコンテンツについては、堤さんの著書で知ることができます。人材育成に真面目に取り組んでいる教育(研修)の専門家にはぜひ一読いただきたいと切に思います。

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悠木 そのま on 4月 17th, 2009

私の母 嘉子さんの実母 トネちゃんと祖母 トラさんのお墓は、村岡小学校を臨む丘の斜面にあります。昨年の今日 2008年4月17日。春から初夏へと向かい、草が繁り始めている丘の斜面にはあいにくの雨が降りそそいでいました。

p4170762efbd9ee69d91e5b2a1e291a11ワイパーがはじく雨粒がフロントグラスの行く手をさえぎり、このお天気では、お墓参りはできな いねと憂えながら、嘉子さんと私はそれでもお墓へ向かっていました。丘の上の駐車場に車を停めると、驚いたことに雨が小雨に変わったのです。念のために、嘉子さんの足元をかばって、私ひとりでお参りをしてくるこ とになりました。

草を分け、イノシシとシカの落し物を交かわしながら、約20年前に訪れた時の記憶をたどって墓石を探すものの、いっこうに見つかりません。ついに、嘉子さんが駐車場から降りてきて探し始めたら、導かれるように、あっけなく墓石群は見つかりました。

トネちゃんこと本名 千鶴子さんの墓石には、昭和七年 弁説和尚建立と刻まれています。妻のために経を読む弁説さんの姿が見え、声が聞こえてきそうです。簡単に掃除をし、お線香をあげて手をあわせると、嘉子さんは「これでもう思い残すことはない」と、つぶやきました。

p4170751e5a4a2e58d83e4bba3e291a93私たちは前夜は、NHKドラマ「夢千代日記」で知られる湯村温泉に泊まり、お墓参りの朝には、夢千代記念館を訪ねています。

「夢千代日記」は原爆二世として生まれ、原爆症を発症して余命短い芸者さんと彼女を取巻く人々の日常を描いたドラマです。脚本、監督の早坂暁さんがひなびた温泉の舞台として選んだのが、 村岡町から小さな峠をひとつ越えた湯村温泉でした。

p4170713e88d92e6b9afe291a12848年 慈覚大師による開湯とされ、明治の終わりから大正にかけての頃、温泉町(新温泉町)の初代町長を経て美方郡郡長に就任した 田中荘太郎さんが振興に力をいれたという記述が見られます。

田中さんは嘉子さんの縁続きにあたり、祖母のトラさんを亡くした嘉子さんは尾張に行くか、田中さんの養女になるか…と問われて、尾張を選んだのだそうです。生前のトラさんに「私が死んだら、尾張へ行きなさい」と諭されていたから…と、嘉子さんは語ります。嘉子さんはそんな事情から、面影すら覚えていない政治家に親しみを感じ、地域に貢献した人と縁続きにあることに誇りを感じているようです。

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嘉子さんと私は夢千代記念館を見学して、そこで古い写真を見つけました。田中荘太郎さんの写真です。

imgp30651嘉子さんは感慨無量のようでした。私も私という存在の中に流れている、縁者たちの人生の物語を改めてかみていました。そして、1年後の嘉子さん宛に手紙を書きました。

夢千代記念館では、指定した宛先に1年後に手紙を届ける”夢手紙”というサービスを行っているのです。

夢手紙のことをすっかり忘れてしまった1年後の春、母宛の手紙が自宅に届きました。この手紙が届く頃にも、嘉子さんは元気でいてくれるろうか…と、小さな心配を胸に書いた手紙です。

そんな杞憂はどこ吹く風、80歳を超えた嘉子さんは今日も元気に、私たち家族のお世話に励んでいます。

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悠木 そのま on 4月 16th, 2009

トネちゃんはお裁縫の上手なお嬢さんでした。何かの事情で子供のない亀村家にもらわれ、何かの事情で愛知県出身の僧侶と出会って結婚し、女の子をもうけました。その女の子がよっこちゃんです。

よっこちゃんが1歳の時、トネちゃんは病気で亡くなりました。トネちゃん亡き後、よっこちゃんはお父さんと二人で、兵庫県の高砂町に(現:高砂市)暮らしていました。かつては美しい白砂で知られ、能「高砂」の舞台にもなった瀬戸内海に面する静かな町です。よっこちゃんは今でも、お父さんに手をひかれ、白砂の浜辺を散歩したことを覚えています。今から70年以上前のことです。

お父さんはお坊さんで弁説さんと言いました。弁説さんとよっこちゃん、父娘二人の穏やかな暮らしは長くは続きませんでした。弁説さんが病を患い、愛知県の実家で療養をすることなったのです。よっこちゃんはトネさん方の祖母、 トラさんに預けられることになりました。トラさんは同じ兵庫県でも日本海側、美方郡村岡町(現:香美町)に住んでいました。

ある朝、お父さんの弁説さんは尾張へ、よっこちゃんは村岡へ。弁説さんは駅のホームで手をふって、汽車で旅立つよっこちゃんを見送ってくれたそうです。5歳の小さな女の子と病いの父親が、汽車の窓の内外で手をふり合って別れるシーンを思う度に、涙があふれます。

弁説さんはとても賢い子供だったので、一家からお坊さんを出したいという彼の父親の意に従って、京都の仏教大学に入学しました。やがて、お説教をするお坊さんとして認められ、高砂のお寺(八田山 月西寺)を任されたようです。

親元を離れ、仏教の道を志した若い僧侶が病いによって道を閉ざされ、最愛の娘とも別れて、故郷へ戻るにあたっては、どれほど無念だったことでしょう。また、父がいつか迎えに来ると信じて、父と別れようとしている少女の心細さはいかばかりでしょう。

しかも、二人はこの後、二度と会うことはありませんでした。弁説さんは翌年、尾張の実家で亡くなったのです。p4170769e794b0e4b8ade58589e794b7e291a0

p4160651toe69d91e5b2a1e5b08fe5ada6e6a0a1実母を亡くし、実父と別れたよっこちゃんは冬は雪に閉ざされる村岡町で、ほんの数年間を過ごします。トラさんは不憫な孫を大層かわいがっていたらしく、よっこちゃんはゲンさんという男衆さんにおんぶされて、川を隔てた村岡小学校に通いました。

トラさんはよっこちゃんに常々、言いました。「私が死んだら、お父さんのお兄さんのいる尾張へ行きなさい。尾張は豊かな土地だからね」

そして、よっこちゃんが小学校2年生の夏、トラさんは他界します。よっこちゃんは愛知県の伯父さんに引き取られ、弁説さんのお兄さん 信義さんに育てられることになりました。

信義さんと妻のお敬さん夫妻は、糸屋さん(紡績業)を営んでいて、第二次大戦前にはたくさんの女工さんを預かっていました。よっこちゃんを3人の我が子とわけへだてなく育て、よっこちゃんは養父母のもとでの恵まれた暮らしをするようになりました。

それでも、よっこちゃんは、亡き母、亡き父のこと、トラさんと過ごした村岡での暮らしが忘れられませんでした。一方で、周りの配慮から実父、実母や村岡町の親族たちのことはあまり知らされませんでした。よっこちゃんは自分のルーツに落ち着かない想いを抱き続けていたようです。

よっこちゃんが50歳くらいになった時、ふと村岡町を訪ねる旅に出ました。旅館の予約もせず、幼い日の記憶を頼りに、亡き母の菩提寺を探し、親戚のマサコお姉さんとも再会しました。よっこちゃんの人生で最大の冒険でした。

よっこちゃんとは私の母、嘉子です

嘉子さんが慕う村岡町を、私もこれまでに4度、訪ねています。1度目は25歳頃、嘉子さんと電車を乗り継いでの旅でした。2度目はたぶん28歳の頃、嘉子さんを助手席に乗せてのロングドライブ。3度目は30歳の頃、嘉子さんと夫(つまり、私の父)の故 宏さんp4160619e69d91e5b2a1e291a7と3人でのドライブ。そして、4度目が昨年の今日 2008年4月16日のことです。

嘉子さんが80歳に近づき、元気なうちにもう一度、トラさんとトネちゃんのお墓参りをさせてあげたいという想いがあり、準備を進めた旅でした。

この旅では、小代という地区に住む”マサコお姉さん”も訪ねました。トラさんの姪御さんにあたる方で、97歳になられたと聞いたように思います。マサコさんはなつかしそうに、あれこれの思い出話を語ってくれた後、母に言いました。「あのかわいそうなよっこちゃんが…。今は幸せなの?」

p4160689e6ada3e5ad90e291a21嘉子さんはきっぱりと答えました。「はい、とっても幸せです」

それは社交辞令ではなく、想いのこもった力強い声でした。私はとても嬉しく思いました。わずか10歳になるまでに母、父、祖母という大切な家族を亡くし、実父の実家のある愛知県に移り住んだ少女時代。結婚して、子供たちも巣立ち、還暦を過ぎて少しづつ夫婦の時間を取り戻しつつあった矢先に夫を亡くした60代…。

私が外出をしようとすると、何かと世話を焼き、外出を引き留めているかのような嘉子さん。隣家に住む孫たちの帰りが遅い夜はテレビを見るのもうわの空で、過分に心配してしまう嘉子さん。

大切な人を失うのではないか、と畏れ続ける人生を送ってきた嘉子さんが「とっても幸せです」ということに、なぜか肩の荷がおりた気分でした。嘉子さんは亀村の姓を継ぎ、松川の家で育ち、犬塚の家に嫁ぎ、家族とは何かを探り続け、長い旅の果てにやっと家族を実感できるようになったのだと思います。

血がつながっているだけが家族でもなく、一緒に住んでいるからと言って家族でもなく、家族は創るものであることをよっこちゃんの旅が教えてくれるました。

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中谷巌さんが名古屋で講演をされるというので、日程をやりくりして参加いたしました。題して「世界大不況をどう生き抜くか」。

中谷巌さんといえば、小渕内閣の「経済政策会議」の議長代理など政府の委員を歴任し、1990年代には政策決定に大きな影響を与えた経済学者さんなのに、昨年、著書『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言』(集英社インターンナショナル)で新自由主義市場原理主義との決別を表明し、巷をあっと言わせた方です。

また、三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長でもあり、私は同社の前身の前身ともいえる東海総合研究所に勤務していたので、中谷さんには一方的に親しみを抱いているのです。

講演会は、経済・経営のエピソードをヨコ糸に織り込みつつ、哲学的なお話がタテ糸にとおった、想い深まるものでした。日本人として、日本のよき文化、よき習慣、よき在り方をもう一度、見つめなおしてみようと痛感しました。

中谷さんによれば・・・

○日本はこのところ欧米流の”戦略論”を取り入れ続けてきたものの、そろそろ日本固有の哲学を取り戻すべき時がきている。

○たとえば、レイオフでも欧米は侵略の歴史、階級社会がベースにあるので、上はドライに下を切れるし、下は下でそんなもの・・・と諦めている。けれ ども、日本は弥生時代から譲り合いながら融和して暮らしてきたので、会社はみんなでがんばって伸ばすものという考え方がある。レイオフの痛みの感じ方が大 きく違う。

○そもそも欧米と日本では、組織と個人の関係が違うので、レイオフをはじめとする欧米型の流儀では社員は動かない。

○つまり、欧米流の戦略論ではこの大不況はとても乗り切れない。むしろ、組織の一体感を損なわないことが大切だ。

○控え目で口べたで、欧米人に比べてプレゼンが下手な日本人。けれども、それでいいい! IR(インベスターリレーションズ)のプレゼンよりも本当にいいものを作っていたら、いいものは評価される。

○数年前にBBC(英国放送協会)のアンケートによれば、日本は世界によい影響を与える国 No.1である。欧米文化もよいが、日本文化のよさを認識して、われわれは自信をもつべきだ。

○日本の12000年の歴史をふりかえれば、世界不況などメではない(ほぼ絶叫!)

言って見れば「日本人のDNAに自信を持とうぜっ!」というお呼びかけ。熱のこもったメッセージに余韻が残りました。

我が国に生まれたからには、望んでも望まなくても、我が国のDNAを受け継いでいるわけです。私は基本的には日本に生まれてよかった、日本人でよかったと思っているものの、それは何故?ってことをきちんと考えたことがありませんでした。この機会に考えてみようと思いました。

また、たくさんの働く人々と関わる仕事をしていた皮膚感覚からすると、中谷さんのおっしゃるようなDNAが本当に継承しているのか、いけるのか、少し心配にも感じます。

日本に階級制度はありませんが、その代りに会社という階層組織があたかも階級社会のような世界を生み出していて、その中では僕(しもべ)を使う貴族のように、貴族に従う僕(しもべ)のように感じたり考えたり動いたりしている人も多いように見えます。

だからこそ、中谷さんも融和の文化、性善説の文化を取り戻そうと提案されているに違いありません。若い人たちの無気力にも見える姿は、私たち社会人の先輩たちがつくりあげた功利主義、性悪説に基づく世界に愛想をつかしているからかもしれません。

時代のキーワードになっている「ダイバーシティ」ですが、互いに多様性を認め合うためには、それぞれが自分らしさを真に愛することが欠かせません。自分を愛せない人には、人を愛したり大切にはできないからです。

日本人として生まれた自分を愛するために、もっと日本のことを知りたくなった中谷さんの講演会でした。

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悠木 そのま on 4月 1st, 2009

アリーナアドヴァンス プロ講師養成スクールでは、短期と長期のインターンシッププログラムを実施しています。長期インターンを平たく表現すると「お弟子制度」。約1年ほど、弊社の研修事務局兼アシスタント講師として経験を積み、講師へのキャリアチェンジ、講師としてのキャリアアップを目指します。
アリーナアドヴァンス 講師養成スクール インターンシップ プログラム

ひと言に講師といっても、実に幅広い分野、業態(?)があります。大学をはじめとする学校の講師、組織人・企業人の教育を行う研修講師、専門分野の 知識・ノウハウを口伝する講演講師、スポーツや技能を教えるトレーニング講師、カルチャーセンターや社会活動における生涯学習講師などなど。

弊社では研修講師の育成を主眼にしつつも、インターンをはじめとするプロ講師養成スクール修了生が様々な領域で足場を築くことを歓迎しています。

そして、2008年の新年早々に弊社の門をたたいてくれた長期インターン第1期生が、この3月31日に卒業いたしました。ブライダルをテーマにセミナー、 ワークショップを企画運営していきたいとのこと。新しいキャリアヴィジョンにふさわしい、講師としての新領域を築くため、卒業早々インフラ整備に奔走して いるようです。頼もしいかぎり!

いかなる領域、業態で講師をめざすのであっても、卒業生たちには人々の存在と人生に敬意を払い、それぞれの自律を尊重し、それぞれのキャリアアップやスキルアップの支援するためプロとして、誠実に着実に活躍してくれるよう心から願っています。

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